空間の質 前回紹介した岸氏の著書の中で、美術館に対する思考があります。岸氏は以前より、F・ゲーリィによる『ビルバオ・グッゲンハイム』を高く評価していたのを知っていたのですが、なにがどう良いのかを再認識しました。 さらにそこにある空間の質と私が何を求めて建築をつくっているのかという本質的な問題を認識する事になりました。 私にとって美術館というものはあらゆるビルディングタイプの中でも特別な存在で、設計者なら美術館の設計を依頼されて喜ばない人はいないでしょう。 そして、私のつくる住宅を見た一般的な意見として、よく言われるのが「店舗のようだ」という言葉について。 今まではさほど気にしていなかったのですが、それは空間の質によるものなのか?ということです。 岸氏によると、テーマパークというのは現実空間から仮想空間に巧みに導入するために、中間領域として商業空間を挟み込む。そこで観客は気がつかないうちに本格的な仮想空間に導入される。それがテーマパークに共通する空間構成である。 そしてそれが、「気がつかないうちに」成立するのは、商業空間は現実の空間のなかでも無意識に半仮想的な空間だというコンセンサスも存在するからだと思う。 そうなると、私の建築空間に対する一般人の評価である「商業空間のよう」というものは、ある種…
「竣工」 岸和郎著『逡巡する思考』2007年の初版であるが、今の自分にフィットするその感じが、読んでいて心地がいい。 建築をつくり終え「竣工」を迎える前後の設計者の気分が的確に表現されています。 ここからは上記の著書の引用。 ”設計監理者としての自分は建築を実現するために集まってきたチーム、ゼネコンの現場所長から左官の職人見習いに至るまで、小さな住宅でさえ数百人という人達が集まったチームの真ん中に立つ立場にいます。旗振り、といっても良いかもしれません。一つの建築を実現するために、そのチームのことを考え、気遣い続けるのが設計者の仕事だと思っているのですが、「竣工」というみんなの目標が達成され次第、そのチームは解散します。成果に満足している人もいれば、まったく不満足な人もいるでしょう。そんなとき、いつも設計者としての私が感じるのは、反省と不満足でしかありません。チームのすべての構成員に満足して仕事をしてもらいたい、そのうえで結果としての建築が人を感動させるものでありたい、と思っているのですが、その思いが十全に達成されることなどありません。” まさしく今の自分は反省のオンパレードで満身創痍な感じです。 決してクライアントが求めるものに答えられなかったというようなレベルでの話ではありません。 建築家と…
建築はアートではない Photo:Gift shop by Pricey アートとは一般的に大衆を相手にしていない。大衆を相手にしないからこそ、アートになり得る訳で、それが作家の個性でもある。 建築はそれが個人住宅であっても周囲の目にさらされ、ある程度の公共性を持ち、作家だけで成立しない部分が多々ある。 だから、アートではない。 建築はアートではなく文化である。 私の尊敬する建築家の一人である手塚貴晴氏の言葉であるが、手塚氏の論調は時代に即しており、なるほどと感心させられ、氏の建築もその思想に合致している。 氏の言葉を聞いたとき、僕の想いは揺れに揺れた。 でも、僕はそれでも建築はアートであると思いたい。 どんなにお金をかけてもたどり着けないものがアートであると僕は思う。 デザインすることがお金をかけることと同意だとすれば、そこに建築家は必要ではない。 建築家でなければたどり着けないデザインこそが真のアートであるのではないか。 お金をかけてもつかめないものをつかみ取ることがアートだと思う。 僕のデザインに値札がついていたなら、きっとユニクロなみだと思う。 でも、クライアントの方々の立場で言えば、きっと高価に見えた方がいいのだろう。 だれも安さを自慢したりしない。それがステイタスというものだ。 …
つくりたいモノ Photo:Wright-3 by rucativava 小室氏についての興味深い記事を読んだ。 それによると、小室氏の手法というのはリスナーのターゲットを極端に絞り そのリサーチを徹底して行うことで、楽曲を生み出していくということらしい。 そして、同時期のもう一人のプロデューサーである「つんく」について。 「僕は新しいダンスミュージックをどうやったら手にとってもらえるのかを考えていただけ。」 過去の実績をそう語っていたらしい。 時代の寵児が二人そろって、自らの創造性ではなく、大衆というマスに向かって「ウケる」音楽を発信していたという事実。 大衆に支持を受けるものをクリエーターがいつも探している状態。 さらに、今のJpopと呼ばれるジャンルはどの曲も似たような曲調で、盗作疑惑もちらほらある。 それは、実はリサーチによるコード進行の類似によるもので音楽的な工夫や創造を放棄した結果ではないかという解説。 つくりたいモノではなくて、要求されているモノをつくることがクリエーターの仕事と呼べるのだろうか。 建築家は依頼がなければデザイン出来ないかもしれないが、つくりたいモノもしくはつくるべきモノを創造することが建築家のアイデンティティーだと僕は思っている。 大衆に支持されるものが…
system Photo:Systém – The System by Jan Krömer 世の中には、いろいろなシステムがあります。 ここで僕の言うシステムは、住宅をつくるためのシステムの話。 独立する以前から、ネットコンペに魅力を感じていて様々な登録をしてきましたが、ここにきて見直しが必要だと思い、ほとんどの登録を退会しました。 単純にコンペが仕事につながらないということではなく、どうもこのシステムは良い住宅をつくるために機能している訳ではないことがわかってきたから。 その前提に良い住宅の評価基準の問題がありますが、そもそもコンペを主催する側にその評価基準が曖昧で必ずしも建築的に優れた提案が採用される訳ではない、ということがあげられます。 それは、コンペの審査員が専門家ではなく、あくまで施主であるということはわかっているのですがそこにプロデュース会社が関わることで、建築的な視点で議論されなければ意味がないということです。 当初、僕はそこに期待をしていましたが、プロデュースする側はそういう意識が乏しいことがほとんどです。 それは、実績を見れば明確です。 つまり、施主が気に入ればそれでOKという話。 もちろん気に入ることは大切なのですが、気に入るものがいいモノかは別で、…
シツカン Photo:The Matter of Time by cocoate.com モノの質の差を言葉で説明するのは難しい。 例えば、塗装一つとってもその塗料の質感が存在するので、同じ色をチョイスしたとしても異なる質感を持っている。 同じように見えても質は全て異なることが多い。 それは、無垢の素材の場合が多い。 木材であったり、コンクリートであったり、その素材の持つ独特の質感はそのモノを目の前で体感し直接触れてみなければ、良さも悪さもわからない。 そして、それを感じることはどんな人でも体感することで一瞬で理解できる。 建築は写真では伝わらないその質感がとても重要だと僕は思っている。 名作と言われる建築にはその質感というものを何らかの形で持っている。 いろいろな建築に足を運んで体感してきたが、それは確信している。 でも、それは言葉で表現するのは難しいし、ましてや建築で表現するのはもっと難しい。 先日、打ち合わせの席での話。 「僕の仕事はこういったものは扱っていないのですが、こういうモノにも違いがあるのですね。 これ、なにがいいかは言えないですけど、なんかいいですね。」 ある素材のサンプルを見ながらクライアントがそう話してくれました。 こういう感覚は共通認識として必ずもっている…
初心忘るべからず Photo:atelier bow-wow, sectional model of house tower, tokyo 2006 by seier+seier 最近、学生の方と話す機会があったのですが、やはり若さというかパワーがあるというのは凄いなと思いました。 そして、初心を忘れないということの大切さとそれを維持することの大変さを感じました。 設計という行為はそれ自体、知識の集合体のようなものですが、知識というのは経験をともなって初めて肉体化するものだと思います。 だから、設計自体も年を重ねるごとに巧くなっていくというのが一般的に考えられることだと思いますが、現実はそう簡単ではありません。 経験というのは、同じ時間を同じ条件で与えられたとしても、その捉え方次第で共通ではありません。 極端に言えば全く正反対の経験として蓄積される場合もあります。 ある人はポジティブな経験として認識し、またある人はネガティブな経験として知識を構築すれば、次に同じ場面に遭遇したとき、どうなるでしょうか。 どんな状況でも立ち向かえる気持ちを維持することは並大抵ではありません。 時には心が折れそうになることもあるのが現実です。 僕が学生時代にアルバイトをした設計事務所の所長が話していた言葉を思…
著作権 Photo:Large copyright sign made of jigsaw puzzle pieces by Horia Varlan 最近、若干ですが以前よりも事務所への問い合わせが増えたような気がします。(気のせい?) ありがたいことです・・・。 ところで、タイトルの「著作権」ですが、なぜこのような文章を書く気になったのかと申しますと、僕自身ではないのですが、間接的に著作の侵害を受けた(と感じた)からです。 それで、ちょっと調べてみました。 建築において著作権というのはどのように機能しているのでしょうか。 建築に関する著作としては、設計図書とそれによってつくられた建築物の二つがあります。 設計図書が建築家による著作物である限り、著作権を有するのは建築家側であることは容易に判断できますが、建築物の方はどうでしょう。 結論から述べますと、建築物自体の「芸術性」によってその有無が異なるのだそうです。 裁判の判例にその芸術性について述べられたものがあるようです。 これは、僕自身初めて知りました。 その判例によると「この建物は一般人をして、設計者の文化的精神性を感得せしめるような芸術性を備えたものとは認められず・・・」となっています。 芸術性の根拠自体は非常にあいまい…
vision Photo:DSCN5129.JPG by leonelponce 最近は本を読む人が少なくなっているらしい。 情報化社会と言われて久しいが、これだけ情報が溢れる世の中でも、活字を読むことは減るどころか増える一方である。 本を読む人が減っているのは、本という情報源よりもインターネットの活字を読む事が増えたせいではないだろうか。 自分自身も本の活字を読むことが減っているが、活字を読む事は逆に増えている。 しかし、本の活字とネットの活字は根本的に違うのは、本はその著者の意図をトレースする事が比較的簡単であるが、ネットは非常に断片的だということだ。 全ての文が等価に見える。 こういう現象は建築にも言えて、空間を等価に扱う動きは今も続いている。 しかし、等価にする事でいろいろな外部の環境にさらされる事になり、よりうつろひというか陽炎のような空間も生まれる可能性があると思う。 そういう意味で、単なる洗練ではない究極の軽さというのは追求する価値があるかもしれない。…
デザイン Photo:Milano design week 2011 :: Tortona design week by br1dotcom 今、もう一度デザインとは何なのか考え直そうと思っています。 建築だけでなく全てのデザインについて。 心惹かれるものは、どうして惹かれるのか。 そして、それを創るためにどう考えるべきなのか。 仕事として報酬をもらっているからプロであると僕は思わない。 プロにだってレベルがあり、アマチュアにもレベルがある。 プロをしのぐアマチュアも現に存在する。 報酬ではなく、その能力がプロでなければならない。 自分がどの位置にいるのかは、自分では分からないが 少なくとも昨日の自分を超えられなければいけない。 自分が考える最高のデザインとは何なのか。 ところで、どうしてこんなことを思ったか。 それはスケートの浅田選手を見たから。 頂点にいてもなお流せる悔し涙。 それは、順位を優勝を目的にしていない。 それは自分が納得するため。 最高の演技をするために。 それを全う出来なければ、順位すら関係ない(ように僕には見えた)。 そんな姿勢を見ると、その純粋さに心うたれる。 僕が出来ることは、デザインを考えること。 ただそれだけ。…
雑感 Photo:黒川紀章・中銀カプセルタワービル Nakagin Capsule Tower, tokyo, Kisho Kurokawa by pictureTYO 今年二度目の更新! 放置状態のブログですが、最近感じること。 建築家という職業も東京都知事に立候補した黒川氏のおかげで 一般的にも広く認知されたことと思います。(笑) でも実際建築家と呼ばれたとしても全ての人が黒川さんのように資産をたくさん持っているわけでもなく、建築家と呼ばれなくとも、素晴らしい建築をつくることができる人もいます。 実際黒川さんも学生時代から有名でしたが、実際に作品が出来たのはずっと後で、作品がない時代も建築家として有名でした。 つまり、建築家という言葉自体、非常に曖昧なものということです。 「作家というものは、その作品によってしか自己を表現しないものだ。」というのが私の信念です。 それは、建築に限らず、音楽や小説などの全てのジャンルに言えることだと思います。 しかし、建築において、唯一ともいえる差異があります。 それは、外部の資本を必要とする。つまり、資金のほとんどを他者に求めて具現化しなくてはならないということです。 その場合、資金を出資したものがその所 有者なので、住宅であれば当然施主が所有者です。…
住宅という建築 Photo:www.toyo-ito.co.jp 久しぶりに読書 本は「中野本町の家」。 約10年くらい前の本。 以前購入しようと思ったら品切れになっていて、絶版になっていたと思ったら 偶然本屋で遭遇。 最近になって再販されたみたい。 面白くて一気に読み終えてしまった。ボリュームか少ないのもあるけど。 ここには、若き建築家の情熱と住宅を欲した施主の葛藤が克明に記されている。 建築家と呼ばれる人間ならば、それは誰しもが表現者にほかならない。 表現者なのだから、そこに独自の価値観が挿入されているし、そうでなければ 建築家とすら呼ばれない。 しかし、その価値が施主にとって有益なのかどうなのか。 そこに建築家の存在価値を見いだす事も出来るが、批判を浴びる原因にもなっている。 「建築家」というのは日本ではその定義が極めて曖昧だ。 私自身、建築家と呼ばれる事に抵抗がある。 私はそんなに大家ではない。 逆を言うと大家である人が建築家と呼ばれるべきだ。 日本にはあまりに多くの「建築家」がいると思う。 価値のある作品を創れる人はそう多くはいない。 最近は建築家ブームらしく、至る所に建築家という肩書きで商業的な動きがある。 私も少なからずそういう所に関わった事があるが、何か危機感を感じる。 ”デザイナー…