現代のネット社会において、建築の物質感やリアリティ、質感が軽視されていると感じます。
昔はそれが、建築雑誌の情報でした。
建築がビジュアルを扱う芸術である以上、写真とは密接に関わっているので
写真で分かったような気になるな!ということは、先輩にいつも言われてきました。
だから、建築家のグランドツアーは非常に重要で、何を見て何を感じるかを
体にそして脳に焼き付けることが、その後の設計に影響を与えることになります。
ネットの情報は、2次元のものであり、建築の全てを表現するには、実に不十分なメディアです。
コルビュジェは、それを逆手に取り、むしろ積極的にその「不十分」なメディアを使って、イメージを流布しました。
それが過度に進化しているのが、現代の状況です。
ところで、建築には床があり壁があり天井があるというのは、逃れられない現実であり
だからこそ、上記の一つでも「〜がない建築」は、センセーショナルであり、羨望の的となる訳です。
しかし、裏を返せば建築の違いが、「壁、床、天井」の仕上の表面の違いとしか認識しないということも可能です。
台紙となる元の形を作って、どこかで見た仕上げを、CGマッピングのように貼り付ければ出来上がり。
ハウスメーカーやディベロッパーの作る建物は、ほとんどがそんなイメージではないでしょうか。
現実の世界には、厚みのない物質は存在しない。
あらゆるものは、厚みを持ちその厚みが「質感」という非常に感知しづらい高度なオーラを纏うように思います。
建築の中身というのは、視覚的に見えずとも、この纏う「質感」が重要で
だからこそ、構造主義的であったり、耐震性だけではない構造に表現を求めます。
つまり、所謂建築的な「ハリボテ」を作ることに抵抗感が強いのです。
どんなに形が美しくて写真映えする家具であっても、「質感」がチープであれば、その形に価値があるのでしょうか。
私は「質感」の確保こそが、最も優先されるものであり、モノを作る上で重要な要素だと思います。
しかし、ファストファッションの台頭で形よりも素材感をチープにすることで、人気を博しているのを見ても
この「質感」の軽視が建築だけではないという時代背景も感じます。
外国に行くと特に感じますが、日本の建築には独特の軽さが存在します。
それがなんなのかを、言語化するのは研究者ではないので、明言するつもりはないですが
素材とかコストとか、仕上がりの良い悪いというよりも
歴史であったり、文化であったりというバックボーンに関することの方が、強いと私は思っています。
ヨーロッパは、車のデザインを見ればわかりますが、造形に対する感性は圧倒的です。
さらに素材にしても日本は木材に対して、石材が(実際その方が安い)多かったりします。
そういう物質としての重さだけで語られることも多々ありますが、私はそれだけではないと・・・。
同じように感じる人のために、僕は建築を作りたい・・・。