Photo:P1060316.jpg by End User
最近、住宅をつくることにちょっと迷いが出てきました。
そして、アートを提供するべきという自分の信念にも。
このブログは自分との対話をテーマにしているので、出来るだけ自分の思うことを書きたいと思います。
それは、クライアントの満足度に対する疑問です。
建築は公共的なものでその評価は客観的であると僕は思っています。
でも、客観的にいくら評価を得てもクライアントの満足度はそれほど比例しない場合があります。
例えばご夫婦であれば、旦那様と奥様の温度差の違い。
夫婦であるから同じ感覚であるという訳ではなく、違いがあって当然。
だからこそ、計画段階での打ち合わせや図面の確認で、そのギャップを埋めていく訳です。
でももしも埋まらなかったら?
埋まらずに建築が完成してしまったら?
僕は建築には愛が必要だと以前の記事に書きました。
それはクライアントの愛が一番必要なのは言うまでもありません。
きれいなだけでは愛されない。
人を好きになることに理由は必要ないように住宅を愛することに理由はない。
気に入ることが最大の理由であれば、気に入らないものに愛情は生まれない。
ではどう気に入ってもらえるか考えなければならないが、僕はクライアントに気に入られるように創ることだけでは
建築家の職能の半分しか機能していない。気に入られる以上のことをしなければならないと思っている。
でもそう考えて懸命につくった建築が真の意味で愛されるとは限らない。
そういう事態が起こり得るのが住宅の難しさでもあるのだろう。
建築家という職能がクライアント産業である限り、クライアントに恵まれなければ成立しないのが宿命である。
でもクライアントを否定してしまうのは自らを否定するのに等しい。
どのような結果であっても、それはやはり自らの未熟さ故の事実なのだ。
建築家に住宅を依頼することが全ての人に有効ではないかもしれない。
それなりの教養と感受性がなければ、どんなに優れた建築であってもいずれゴミになる。
誰しもゴミに金を払いたくはないだろうが、どんなに価値があったとしてもその価値がわからない人にとってそれはゴミである。
ゴミと資源の違いはその価値の存在に他ならない。
住宅が都市の資源であるならば、その価値を知らしめなければ資源を捨てることになる。
今はその価値を高める努力も必要だが、それ以上にそれを認知してもらえる努力が必要だと強く感じている。