風景は少しずつ変化している。
その風景が変わっても切り取る気持ちと場所はいつまでも変わらない。
その気持ちがフレームに託されている。
ゆらゆら揺れるカーテンは移ろい行く風景を包み込み受け止めている。
何百年の月日を重ねてつくり上げられた風景を人間の営みは一瞬で変えてしまえるほどの力を持ってしまった。
その力を自在に使う能力を持つ事は、力を得る事よりも難しい。
世の中を変える力はそういう能力を身につけた人間が行使しなければいずれ破綻する。
対岸の木の為の空間。
すでにうっそうとしてしまって、木の存在が良くわからないが
僕の好きな空間。
子供にちょうど良い位の空間だが、そのタイトさが心地よい。
こういう、空間性のあるものがやっぱり楽しい。
よく見ると、ヒトガタの集積で構成されている。
TOD’Sの人版でしょうか。
先日、話をした人がTOD’Sとミキモトは同じデザインだと思う。という人がいた。
僕は全く違うと思うのだが、それが同じだと思うとしたら形しか見えていないのだろうと感じた。
このヒトガタは、壁に孔があいているという風にみれば、全くヒトガタには見えない。
孔ではなく隙間という感じだろう。
孔と隙間は、言葉が違うが表現される物体は似たようなものかもしれない。
しかし、そこに込められた表現は孔と隙間では全く異なるものだと思う。
白い形はその素材感を均一にする事で、より形を厳密にさせる。
光を均質にするか、形を均質にするか。
それは一つの大きな命題である。
今回のメインイベント。
ペローは僕の好きな建築家の一人。
他のどの作品よりも建築的だったのが印象的だった。
ファインアートの親としてのアーキテクチャーとはこういうものだというエネルギーを感じた。
建築は芸術ではないと多くの日本人が思っているだろう。
建築家であってもそういう人が多い。
しかし、私はそうは思わない。
アーティスティックな部分がなければ、それはすでに建築ではないと思う。
単なる機能を満たすだけの構造体なら、建築家は必要ない。
建築家が未だ必要とされているとするならば、それはその芸術性に他ならない。
それは、住宅であっても同じ事だ。