約5年ぶりの札幌。
5年で町が大きく変わるわけではないけれど、少しずつ変化してくのが都市でもある。
以前はなかった、「頭大仏殿」安藤忠雄設計。
実は、実家のお墓がこの霊園にあるのだが、墓参りも満足に出来ずにいたのに心が痛みつつ
まさか安藤作品と対峙することになろうとは・・・。
この霊園には、昔からモアイ像やストーンヘンジがあり、ちょっと奇妙な雰囲気を醸し出していた。
しかし、いくら正確に模倣したとしても、模倣でしかなく唯一無二な存在になることは出来ない。
モアイは見たことがないが、ストーンヘンジは実物を数年前に見た。
芝の上を歩く人数も制限され、慎重に保存されていたのを思い出す。
そこにある石像は、とても忠実かもしれないが、やはり巨石群というだけで、モアイでもストーンヘンジでもない。
大仏自体も鎌倉の大仏のようであるが、鎌倉ではないし、石像の大仏だ。
しかし、そんなある種、無造作に散らばっていたピースが、あたかも最初から決まっていたかのごとく
おさまってしまうのは、安藤忠雄という構成力によってという以外に言葉が見つからない。
建築に機能が必要なのか疑問になるくらい、建築の価値というものを突きつけられる。
「ラベンダーの丘に飛び出す大仏の頭」
言葉にすると、これだけの建築だ。
でも、こんなに広大なラベンダーの丘は見たことないし、水盤に至るアプローチとトンネルの構成は安藤さんらしい。
ロトンダの光は、トップライトのように光を切り取るがごとく。
もちろん、今は季節ではないのでラベンダーに囲まれる景観は見ることが出来なかったが
ラベンダーなら、大好きな富良野の丘を脳内で合成するだけで、北海道に生まれてよかったと思える。
以前の「滝野霊園」のモアイとストーンヘンジは、向かい合っていた気がするが、配置を変更するのは
それなりのコストが掛かるだろう。
それでも、あの配置にしなければならなかったのは、アプローチを歩けばすぐに分かる。
建築の設計をするということは、コストや法規制や納期など、あらゆるハードルを常に超えなければ実現しない。
ただ、建物を設計すること自体は、実はそれほど難しいことではない。
一般的な手法を用いれば、設計行為はほぼ皆無と言っていいほど、日本の施工者は優秀だ。
その技術を再編し、新たな価値を生み出すことが”建築設計”であり、それはとても難解で正解はいくつも存在する。
建築というのはつくられてしまうことで、絶大な説得力を持つ。
だからこそ、どうつくるかこそが問われ、なにを実現するのかを自問自答することになる。
それは、とても個人的な作業でもあり、多数決で解決できることではない。
建築家が個人で活動するということが、どんなに大きなプロジェクトであっても
その個人の想いでしか、建築として成立しないということと同義だと私は思う。
そして、住宅は建築の原型であり、最も純粋な建築だと今でも思っているのは、安藤さんの影響だろう。
安藤さんがこの地に作品を残すことを、我がご先祖さまは知っていたのかもしれない。
そして、私がそこで感じる感動のすべても。
我が父の冥福を心より祈って・・・合掌。