両国の駅からの視線を十分に意識したであろうその形態はわかりやすさと複雑さを同時に表現しているようにも見える。
レム・コールハースの「ビッグネス」を建築家によって具現化したような佇まいは、異様なものだがここまで堂々とされると、やはり説得力を帯びてくる。
強いものが勝者であるのではなく、勝ったものが強いということか。
「バカの壁」を何気なく開く。
それは、15年ほど前の養老孟司著の対談をまとめた本で、とても読みやすいもの。
そこで語られる論旨は、現代人がいかに偏った思考方法かということが書いてある。
話せばわかるというのは大嘘で、話してもわからないことはこの世に無数に存在する。
説明してわかることは、ほんの少ししかない。
それがバカの壁であり、その壁に隔たれたもの同士がいくら会話を試みても、互いを理解することができない。
物を知るということは、このビッグネスな建築を前にした感情が、もっと近くに寄ってみたら、どうなのだろう
反対側から見たらどうなってる?あのピロティでコーヒー飲んだらどんな気分・・・。
というように無数の情報がそこに転がっている状態を、一つ一つ観察し体感して
再び同じ建築を見たときに、ガラッと見え方や感じ方が変わること。
それが、知るということ。
僕はこのショットをスマホに収めただけで何も知らない。
それは、菊竹さんの思いのほんの、ほんのわずかな雫のようなものを掬っているだけだ
ということだけは理解しているのだが。