Photo:sanaa, zollverein kubus, 2003-2006 by seier+seier
住宅は商品という側面も必ずしもあるかもしれない。
だからこそハウスメーカーなるものが存在すると思う。
その存在を否定するつもりは無いけれど、建築家と創る家はそういうものとは全く違うと思いたい。
車のような感覚で気軽にオプションを加えたり・・・
それは、満足感はあるのかもしれないけれど、建築の本質とは別な所で
予算がどんどん消費されていくのを目の当たりにすると、大変虚しい気分になる。
最近は、太陽光発電が事業化されていることもあり、”屋根貸し”だとかそういう
資本主義の道具にされている建築はもはや建築ではなく、単なる構築物に成り下がる。
資本を産み出すための建築物という側面は、もちろん重要な部分ではあるが
それだけのために、この手の建設に関わるのは出来れば遠慮をしたい。
自分の心を削って創ったものが、結果的に資本主義の恩恵を受けるというのなら
それは、願ってもない幸運であるのだけれど。
そんな幸せな経験は滅多に訪れないものだ。
ただ、建設という行為に関わっているだけでも、まだマシなのだろうが。
僕は建築が好きだ。建築を考えるのも創るのも。
そんな建築バカの創るものをイイと言ってくれる人のために、僕は建築を創りたい。
イイと言ってくれる人がいなくても、考えつづける根性は持ち続けよう。
最近、気がついたのはそんな根本的なこと。
でも、こういう根本的なことは近づけば近づくほど実はとっても奥が深くて
わかったような気がするだけで、理解には程遠かったりするのが現実。
明日になったら、また同じコトしてるかもしれないし。
Photo:sanaa, zollverein kubus, 2003-2006 by seier+seier
There may always be side housing that commodity.
I want to think I’m not going to deny its existence, but home to build and architect is completely different from the one that.
If you witnessed budget is going to be consumed rapidly at a separate essence of architecture, it becomes very vain mood.
Aspect of building for procreation the capital, some in important part, of course, just for it, involved in the construction of
this kind I want to refrain if possible.
Thing that I made it by cutting the heart of his, that if the benefit of capitalism as a result, it is, but he is a lucky no hope.
It ‘s which such happy experience is not visited rarely.
I like architecture.I to think the construction nor make.
For those who will say good things that make construction of such love, I want to make a building.
Even if no one who will say good, it tries to continue have the guts to keep thinking.
Recently, it was noticed that such fundamental.